2018、7、8            聖霊降臨節第8主日礼拝       牧師 川﨑善三

「神の川」                            エゼキエル 47:1~9

 預言者エゼキエルは、バビロンに捕虜となって連れ去られた人々と共に居ました。彼は、もう祖国に帰れないと悲しんでいる人々と共にいたわけです。喜びと希望を失い、異国の地で生きている人々を見て預言者の心は痛みました。エゼキエルは神さまに祈りました。主よ、いつまでなのですか。いつまで、私たちは苦しみ続けなければならないのですか。彼はイスラエルの民の現状を訴え、神の憐れみとゆるしを求めて祈りました。これはエゼキエルのとりなしの祈りです。アブラハムは、ソドムとゴモラの滅びを示された時、とりなして祈りました。五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。神さまは、罪人のために祈る祈り手を求めておられます。エルサレムの町は攻められ、神殿は粉々に破壊されていたのに、預言者は神の宮が復興することを、神さまに示されるのです。神はエゼキエルを神殿の宮の戸口に伴われます。すると、水が宮の敷居の下から東の方に向かって流れている様子を見せられました。その水はくるぶしからひざに、ひざから腰に、やがて泳げるほどの川となって流れていくさまを見せられるのです。聖書には「川」について語られている個所がいくつかあります。「また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった」(創世記2:10)エデンの園にひとつの川が流れていました。この川はエデンの園のすべての木々を潤し、その実を豊かに実らせるために大事な川です。それは命の水があふれている川です。そして、園を潤し、そこから分かれて四つの川となって、世界中に命の水を運ぶ川となって流れ出ていたのです。この命の水の流れ出る川は、やがて来るべき神の国、すなわち新天新地でも流れている川として登場します。「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている」(ヨハネ黙示録22:1,2)新天新地における神の都には、いのちの水の流れる川があります。都の大通りをその川は流れ、川の両側にはいのちの木があり、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす力のあるものでした。走っても疲れず、歩んでもうむことのない力が与えられるものでした。エゼキエルの見た幻は、新天新地の幻と一致するものでした。エゼキエルは新天新地の神の都を流れるいのちの水の川を見ることができたのです。「この川の流れる所では、すべてのものが生きている」すべてのものが、神の命にあずかって生き生きと生きることができるのです。イエスさまを信じ、尊い救いにあずかっている私たちは、このいのちの水をいただいているのです。私たち自身が潤され、また他の人々をも潤す存在となることができるよう、しっかりとイエスさまにつながっていきましょう。