2018.8.12        聖霊降臨節第13主日     日下部 勝牧師
「献げる信仰」                          ルカ 21:1~14

 
 イエス・キリストは神の救いの業を徹底して示されました。十字架の出来事を通して罪を犯した人間さえも全力を尽くして救おうとなさる神を示して下さったのです。教会  では主イエスの死を「十字架の贖い 」と言う言葉で表現します。贖いとは「買い戻す」 つまり神みずからが命を差し出すから、あなたの命を買い戻す、買い戻された命を持ってあなたは生きて行きなさいという意味です。つまり、神の最終目的は「全ての人間を買い戻す、罪から解放するという事であり、この神様のみ業、即ち命を救って下さった方に「お礼しながら」生きるのがキリスト者であります。
 それでは、神が最も喜ばれるお礼の仕方はなんでしょうか。ホセア書を開けてみると六章六節「私が喜ぶのは愛であっていけにえではなく神を知ることであつて焼き尽くす献げ物ではない」神さまは何よりも神を知ること、神を愛する事を喜ばれる。焼き尽くす献げ物は本来は神への感謝のしるしとして献げられていたものでしたが、イスラエルの人々はいつの間にかこれを献げることで神さまは満足すると勘違いしてしまったのです。イスラエルの神ヤハウエは「そうではない、まず私を知ることだ」と、創り主なる神を覚え歴史の中で生きて働きあなたを救う神を知ることこそが正しい応答のあり方だと旧約聖書は語るのです。またパウロはロマ書一二章で私達の「お礼の仕方」のさらにステップアップした方法を語ります。「あなた方のからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。むしろ心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」私達の体をお捧げする、つまり私達の存在そのもの、生活も人生も神の必要な働きのために用い頂く、これを「献身」と言います。
 私たち信仰者は自分中心で生きて行くのでなく、神中心的な生き方をするように召された者です。この生き方には心にはいつも平安があり、救いの確信があり、魂も身体も神の愛で喜び満たされています。   
 さて、今日の聖書の個所は賽銭箱に金持ちがたくさん献金を入れ、貧しいやもめが少しだけ、でも全財産を献金したというお話です。お金持ちがたくさんお金を放り込むと皆振り向いて「うおう!」とどよめくでしょう。だけども主イエスはそんなものにこれっぽっち鼻にもかけられません。イエスが観ておられたのは、貧しいやもめが献げたレプトン銅貨二枚です。レプトン銅貨と云うのは当時の貨幣の中で一番小さい位、一デナリオンが一日の賃金、その一二八分の一、一レプトンは五十円とか、数十円ぐらい、小麦粉一掴み。当時の物価は分かりませんがそれが彼女の全財産、幾日かの食事を得る分だったのでしよう。
 イエス様は「律法学者に気をつけなさい。やもめの家を食い物に見せかけの長い祈りをする」当時貧しいやもめを 律法学者が食い物にしていたと聖書は伝えています。例えば夫が亡くなると息子や男性親族が彼女を保護し養う責任があります。いなければ地域の人々にその責任があり、その場合は地域の中で社会的に立派な人が立たなければなりません。そこで登場するのが社会的、宗教的に尊敬されていた律法学者たちだったのでしよう。しかし、彼らは保護するどころか、やもめの全財産を好き勝手に使っていたのです。財産を食いつぶされた貧しいやもめは全財産を賽銭箱に投げ入れました。おそらくそれは人生最後の献げものです。皆さんには彼女のどんな声が聞こえてくるでしょうか。謙虚で敬虔深い声が聴こえてくるでしょうか 。いやむしろ「 何故このような事になったのか、いつまで私は律法学者の言いなりにならなければならないのか、神さま、あなたには私が見えているのですか 」そんな呻き共、恨みとも取れるような声が聴こえてきます。彼女の全財産がレプトン二枚なんてなんと言う厳しい悲しい人生でしょうか。二円入れたって音さえしません。しかしイエス様はそれを見ておられた。そして「彼女は誰よりも沢山入れた」とお っしゃったのです。彼女の嘆きも、やりきれなさも、疲れも、そして、最後の神さまへの呻くような言葉も、丸ごと抱えられたのです。つまり、彼女ほど神に正しく応答した人はいない、もはや彼女の目には神しか見えていなかったのです。「彼女は誰よりもたくさん入れたのだ」と。
 このやもめは幾度もイエス様と出会いイエス様の愛と哀れに生かされて厳しい人生を歩むことが出来ました。そして時に呻きと歎きの中にあってもなお主イエスを信頼して分のような貧しいものをいつも見捨てず顧みて下さるイエスの愛を信じて行こう、又なおこれからもイエスの比類なき愛に感謝して歩むその証が二枚のレプトンなのでした。そしてまた二枚のレプトンはこれからも残る生涯を神へのお礼として自己のすべてを神に捧げて生きて行く決断の証です。
 私たちもまたそれぞれの信仰生活において神様からいただいた豊かな恵みに感謝して謙虚に誠実にお礼をしながら生きる者でありたいと願う次第です。