2018、8,5        聖霊降臨節第12主日礼拝       川﨑善三牧師

「見えるという事」                          マルコ10:46~52

 イエスさまは、三年間の公生涯において数々の奇跡を行われました。それはキリストが来られたら、そのような奇跡が行われると預言されていたことが実現したということです。「その時、目の不自由な人の目は開かれ、耳の聞こえない人の耳はあけられる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人は喜び歌う」(イザヤ三五・五、六)と預言されているとおりの事が、イエスさまによって行われたのです。イエスさまは、病気の人を癒され、足の不自由な人を歩くことができるようにし、目の見えない人を見えるようにして下さいました。新約聖書には目の不自由な人が見えるようになったという奇跡がいくつか記述されています。
 「イエスはこの目の不自由な人の手をとって、村の外に連れ出し、その両方の目につばきをつけ、両手を彼に当てて、『何か見えるか』と尋ねられた。すると彼は顔を上げて言った『人が見えます。木のように見えます。歩いているようです』」(マルコ八・二三、二四)ベッサイダで、ひとりの目の見えない人が人に連れられてやってきました。人々はこの人の目が見えるようになることを願って、イエスさまにお願いしました。すると、イエスさまは彼を村の外に連れ出して、両方の目につばきをつけ、両手をあててお祈りして下さいました。そして、「何か見えるか」と尋ねられました。彼は顔を上げて、目をこらして一生懸命見つめました。「人が見えます。木のように見えます。歩いているようです」彼の視力は、ぼんやりでありますが見えるようになったのです。それから再び、イエスさまが目の上に両手を当てられると、はっきりと見えるようになりました。この人の癒しは段階的によくなったと言うケースです。最初から、いきなり見えるようになったのではありません。次は違ったケースです。「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつき目の不自由な人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った『先生、この人が生まれつき目が不自由なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』」(ヨハネ九・一、二)この人は、生まれつき目が見えませんでした。目の見える可能性が、全くなかったということです。弟子たちはその事を罪の結果だと思いました。ユダヤ人はみな、そのように考えていたからです。悪いことが起こるのは罪の結果だという考えです。
  しかし、イエスさまは「神のみわざが彼の上に現れるためである」と言われました。災いが及ぶことがあってもそれを通して、神さまはあなたに恵みを与えて下さる機会となると言われました。そして他につばきして、どろをこね、そのどろをその人の目に塗って言われました。「シロアムの池に行って洗いなさい」そこで、彼はシロアムの池に行きました。エルサレムにあるシロアムの池は低い所にあります。階段を一歩一歩降りていくのは、勇気のいることです。しかし、この人はイエスさまの言われた事を信じました。そして、人に助けてもらってシロアムの池に行って目を洗いました。すると、彼は見えるようになって喜んで帰っていきました。信じて行動する所に奇跡が表されたという点が特徴です。御言葉を信じて行動するとき、神さまは不思議な事をして下さいます。ヨルダン川を渡ったときも、人々は神さまのおことばを信じて、契約の箱が川の中にとどまっているとき、川を渡りました。信じて行動しなさい。そうすれば、神さまは助けて下さいます。そして、第三のケースです。「イエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、バルテマイという目の不自由なこじきが、道ばたにすわっていた」 (マルコ一〇・四六)イエスさまと大ぜいの群衆が、エリコから出かけられたとき、その事件がありました。バルテマイという目の不自由な人がイエスさまが来られたと聞いて、大声で叫んで言いました「ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」多くの人は彼をしかって黙らせようとしました。しかし、彼はますます激しく叫び続けました。彼の祈りと願いを妨害する力が働いていました。しかし、イエスさまは「彼を呼べ」と言われました。バルテマイはその言葉を聞いて、踊りあがってイエスさまのもとに来ました。イエスさまは彼に「わたしに何をしてほしいのか」と言われました。「先生、見えるようになることです」イエスさまは言われました「行け、あなたの信仰があなたを救った」この人は、自分からすすんで、イエスさまを救い主と信じて助けを求めました。そして、この人はその信仰のゆえに癒されました。私たちも、霊の世界を見ることができる心の目が見えることをイエスさまに求めて、見えるようにしていただきましょう。