2018.9.30            聖霊降臨節第20主日礼拝   
        米子福音ルーテル教会牧師 松村 秀樹師
「ただ信じる」                マルコ5:21~43

 「恐れることはない。ただ信じなさい。」マルコ五・三六  マルコ五・二一~四三には、二つの出来事が同時進行的に記されています。病気のために、いのちが危ういヤイロの娘の癒しと長血の女の癒しの出来事です。ヤイロの娘を助けに行く途中で、イエス様は長血の女に関わっていかれます。ところが、長血の女を癒している間に、ヤイロの娘は死んでしまいます。ヤイロの失望は計り知れなかったに違いありません。でも、そんなヤイロにイエス様は語りかけられます。今日の中心聖句です。「恐れることはない。ただ信じなさい。」マルコ五・三六。今日のみことばから、私たちは、何故信じるべきなのか、二つのことを聞いていきましょう。
 第一に、いのちと向き合う時、人は神様を思う存在だから、主を信じるべきなのです。 ヤイロの娘とヤイロ、そして、長血の女は、それぞれにいのちと向き合いました。ヤイロは娘のいのちに向き合い、必死に娘の癒しをイエス様に願いました。長血の女は、ヤイロとは対照的に、人知れず、イエス様にすがっていきます。人知れず、けれどもやはり、必死の思いでイエス様を求めていったのです。
 人は必ず、一度死にます。その時、必然的に自分のいのちと向き合うことになります。或いは、病の苦しみの中や、生活の苦しさの中で、いのちと向き合います。ただそれまで、多くの人が、最も大切な自分のいのちと向き合うことを先送りにし、真実から目をそむけているように思えます。
 人はいのちに向き合う時、神様を思う存在です。そのいのちが神様によって造られたからです。人の存在は、神様にあって、「ある」ものとなります。だから、いのちに向き合う時、いのちと存在の源である神様を思うのです。
 クリスチャンになると、この神様を伝えたいと思うようになります。それは、多くの人に、それまで棚上げにしていた、本来の「私」を取り戻してほしいと思うからです。いのちの尊さは、この天地万物を造られた神様が、そのいのちを大切に造り、高価で尊いといってくださるから、尊いのです。存在そのものが尊いのです。でも、その存在の源である神様から離れる時、自分自身のいのちの尊厳を見失います。私たちが、神様をお伝えしたいと願う動機は、真実のいのちの尊厳を、すべての人が取り戻してほしいと願うからです。
 私たちは、いのちと向き合う時、私たちを造ってくださった神様を思う存在です。だからこそ、この神様を信じるべきですし、この神様を信じる時、恐れる必要がないことを知るのです。
 第二に、本当のいのちの価値を確認することができるから、私たちは信じるべきです。
 必死に娘のいやし願い、イエス様にすがりつくヤイロの姿を見ていると、彼にとって娘が、どれほど大切な存在であるかが分かります。ヤイロにとっては自分のいのちと引き換えてでも救ってほしいいのちでした。

 一方で、長血の女は、ヤイロの娘が生きて来た年月と同じ年月を病で苦しみ続けてきました。その病のゆえに、人々からも、だまされたり、さげすまれたりしてきました。そのいのちの価値を誰からも認められない存在でした。
 彼女は、「きっと直る」と言う信仰で、イエス様の衣にさわります。彼女の信仰の通りにいやされると言う感動的な出来事です。私たちの目からは、それで完了したと思えます。でも、イエス様の彼女の取り扱いはこれで終わりではなく、むしろここから始まりました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」イエス様は彼女に御声をかけていきます。
 一方でその間、ヤイロは気をもんでいたに違いありません。もし私がヤイロなら「そんなことはどうでもいいから、早く娘のところに」と思ったに違いありません。でも、イエス様にとって、長血の女の一二年間、そして長血の女のいのちは、「そんなこと」ではありませんでした。イエス様にとっては、ヤイロの娘も長血の女も、高価で尊い大切ないのちです。
「あなたを救った」そのことばの裏には、実は、イエス様のいのちの犠牲があります。イエス様がいのちをかけてでも救いたいいのち、それが、ヤイロの娘のいのちであり、長血の女のいのちであり、私たちのいのちです。
 イエス様を信じるとは、イエス様が、いのちがけで救うほどに私たちのいのちには価値があることを知ることです。イエス様を信じて、本来のいのちを取り戻したいのです。